美術史の豊かな知識を土台にして、当代一の画力を武器にどこにもない絵を生み出す。そんな人気画家、山口晃ガハクは夫婦揃って食いしん坊。日常で、旅で、制作中の日々で、散歩の途中で何を食べてるの? ガハクが日常を描くコミックエッセイ『すゞしろ日記』に「カミさん」として登場するガハク妻による食事帖。 語ってもらって、羨ましかったり、楽しかったりするっていうのもごはん話の楽しみではあるから。

 

絵/山口晃

山口ヒゲ画伯こと夫(以下ガハク)が不在の晩、さて夕飯はどうしようかと考える。
ちょうど街に出る予定があったので、デパ地下で気の利いたお惣菜とハーフサイズのワインを買うとか、外出ついでにガハクとは行かなさそうな店に行って早めの夕食をとるのもよいかも。ごはんにつきあってくれそうな友人、知人に連絡してみるのも一案か・・・などとあれこれ考えるも、ずっと手つかずのままで片付けねばならぬ経理作業のことが頭にちらつき、さらには冷蔵庫の中に残った古い豚肉のことも思い出し、まっすぐ帰る。
ごはんを作るのも、ひとりとなると手抜きになる。最低限の栄養素をカバーすればいいと葉野菜と肉を適当に炒め、塩コショウをしてワンプレートに山盛りにして終わり。あとは作り置きのブロッコリーや大根の酢漬けの小鉢を添えればそれほどお粗末でもない。
気持ちに余裕があれば、ひとり宴会でサブスクの映画などを観て過ごしただろうけれど、今晩はお仕事につき珍しく酒類もナシで休肝日とする。

そんなふうにひとりで夕ごはんを食べている夜の8時過ぎ、携帯電話の着信音がチリチリと鳴った。
ガハクからである。
「うふふ・・・。Eに行ってきちゃった」
お酒が程よく回っているのか、いい気分になって報告電話をしてきた。

本日ガハクは講演があるとのことで日帰りの京都出張へと出かけている。仕事を受けた当初はこれに合わせて前か後に宿泊でもして、京都観光をもくろんでいたと思われるが、例によってガハクは終わらない仕事を多々かかえていてそんな希望は消えてしまった。(もしそうであれば、わたしもあわせて出掛けられたのに)
逡巡していたけれど泊まりは到底無理だと諦めがついた時、
「せっかく京都に行くのだから、せめて何かおいしいものを食べて帰って来てもいい?」
ガハクは泣きそうになってわたしに訴えてきた。
無論、「うんうん、そうしなされ」と促した。
自業自得とはいえ、昼夜逆転で日々絵を描くという生活になっているので、午前の新幹線に乗れるのか毎度ひやひやし、最低限の身支度をしてよれよれと玄関を出ていくガハクの姿を側で見ていると不憫である。たまにはご褒美も必要だろう。

夕方に仕事が終わってご飯を食べて帰るとなると、駅に近い場所が安心だ。
とすると新幹線口の方にある、気の利いた一品料理を出してくれるEが必然的に候補にあがる。もしくは駅ビルやホテル内の日本料理のお店あたりか。
今や京都はどこも予約が必須なので、ガハクも数日前に電話をしたがすでに出遅れで満席。他にあてもないので、すがるようにキャンセルが出る可能性を訊ねてみると、「何ともいえない」というごもっともなお返事だったそう。
しかし、あきらめきれないガハクが前日に再度連絡を試みたところ、執念が実ったのか午後5時から7時までなら1席確保できるという幸運に恵まれた。
ガハク、食べることに関しては気合の入り方が違う。
5時には間に合いそうもないが、なるべく早くお店へ向かおう、とEに行くことを心の支えにガハクは京都へ慌ただしく旅立ったのだった。

京都からのガハクの電話は、周りにいる人に聞こえていやしないか心配になるくらいに浮かれていた。
「へへへ、カ・ニ、カニ食べちゃった」
「ええーっ、なにそれ。ずるい」
以下、ガハクが何か言う度にわたしが羨ましさ120パーセントの合いの手を入れることになる。
ガハクの話は続いていく・・・。

「カニの酢の物っていうのを頼んだのだけど、ほぐして出てくると思うじゃない? それがさぁ、小さいカニの甲羅に身が並んで入ってて、上に酢のジュレがかかってるのよ」
「なにー。ジュレ!」
「えっと、最初は柿の和え物がお通しで出てー」
ひとまずカニの感動を伝えてから、食べたものを順を追って語りだした模様。
「で、カラスミ。カラスミ、おいしいよねー。銀杏もちょこっとつまんだりして。素揚げでね」
「カラスミに銀杏だとー? 食べたい」
「大根のスープを飲んでー、これは出汁がハマグリでね。それから、ホタテの味噌漬けっていうの? 麹っぽい風味で、カキフライも食べちゃった。ふー、ぷりっぷりでサクッとね」
「むむむ、カキフライ」
「あと牛のステーキ〜」
「牛も!」
「ほんのちょっとだよ、ちょっと。2〜3切れくらい。で、トリュフが載っていたりして」
「トリュフまで・・・どういうこと。薄く切ったやつだよね? 載せる必要あるの」
「まあまあ。それでね、最後は鯖寿司に卵かけご飯ー。TKGよ」
「・・・ものすごくいっぱい食べてるね」
「ひとり客用にね、お店の方で量をあんばいしてくれるのよ。だからちょっとずつ、いろんなものをたくさん食べられるの」
「それにしても鯖寿司に卵かけご飯って多すぎじゃない?」
「そんなことない、ペロですよ。ちょうどいい感じ」
「よかったね。新幹線、乗り遅れないようにね」
ガハクは余程満足した時間を過ごしたのだろう。夢みるヒゲ乙女であるかのごとく、うっとりと舞い上がった調子で話を聞かせてくれた。

Eかあ。いいな。ガハクは随分満喫したようだ。Eは以前ガハクが京都在住の方から、新幹線で帰る前に一杯やるのにいいよ、と教えてもらったお店なのだが、一緒には行けたためしがない。
わたしも一度、ここで飲みたいがために出張時の宿泊先をこの付近にして、夜にひとりで行ったことがある。随分前のことになるが、心地よくカウンターに座って、いただいた料理にはどれも気分が高揚させられ、〆にはガハクからお薦めされていた鴨そばを食べた、と記憶している。
なので今回、ガハクが食後に舞い上がっていたのももっともなのだ。
今度はふたりで行きたいものだ。

その翌週、前々から気になっていた箱根のP美術館で開催されている展覧会会期がいよいよ終了間近となり、思い立ってひとりで行くことにした。
ガハクも心としては箱根に行きたかったものの、仕事の溜まった現状がそれを許さずで。
さっと用件をすませてすぐに帰ろう。お昼はカフェでサンドイッチでもつまめばいいやと思っていたところ、
「わざわざ時間をかけて箱根まで行ってサンドイッチなんかでいいの? ゆっくりしておいでよ」
ガハクに言われ、それもそうかなと時刻表を見なおしてみる。

当日、お昼過ぎにP美術館に到着すると、まず併設のレストランへと直行した。窓際の席へと案内された店内は天井も高く、広々としており、ガラス張りの大きな窓の外に紅葉した木々が見える。こんな景色を目にするとすっかり寛いだ気持ちになって、花より団子、芸術鑑賞も重要だけどごはんも充実させねばと妙な使命感が生まれてくる。
ガハクは先週京都でいいものを食べてきたことだし・・・などと思い出すと、対抗するわけではないが、ついつい手軽にすむワンプレート系ではなくコース料理の方をオーダーしてしまう。
なお、本来の目的は展覧会なのでワインは節制しておいた。

わたしのひとりランチは、チーズ系のペーストが塗られたタルティーヌと、白く小ぶりな器に入ったきのこのスープで始まった。この2品がとんとんと四角い陶器のプレートに並んだ様はごくシンプルであるが、味の方は様々な要素がからみあっていて複雑で深みがあった。続いて皮がパリッと焼けたメインの魚。こちらも白いお皿に載せられて、付け合わせの野菜の緑や赤が鮮やかだ。季節柄ソースはきのこがベースだそうで、マッシュルームがごろごろと転がっている。わたしの技術ではできない仕上げだなあと焦げ目に感心し、その白身魚をナイフとフォークで切り分けながら、ひとりで過ごすぜいたくを噛みしめる。
食後のコーヒーはひとり外食のハイライトだ。デザートは小さな丸みのあるグラスに入った栗のプリン。甘い物の後に飲むブラックコーヒーの苦味が心地よく、日が当たって黄色く輝く木の葉を眺めながら、誰にも邪魔されない時間を持つという満足感に浸った。
わたしはひとりで旅をしたり、ごはんを食べたりするのがかなり好きなのだな、とつくづく思った。

家に戻って、景色のいいレストランでコース料理をひとりで食べてすごく楽しかった、とガハクに伝えると、
「ひとりで過ごしたときのことを報告されると、聞いた方も同じ状況を共有できるからいいよね。経験していなくても、聞いたことでそれをしたような気になれる。誰かと一緒にならば、それはそれで、同じ体験をした時間を持つことができるから、それもよし」
と、いい具合にまとめてくれた。
ひとりでも誰かとでもごはんを食べたということを、思い出して語り合うのは確かに楽しいひとときだ。

■次回「ヒゲのガハクごはん帖」は2025年1月第2週に公開予定です。


●山口晃さんってどんな画家?
1969年東京都生まれ、群馬県桐生市に育つ。96年東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻(油画)修士課程修了。 2013年『ヘンな日本美術史』(祥伝社)で第12回小林秀雄賞受賞。
日本の伝統的絵画の様式を踏まえ、油絵で描く作風が特徴。都市鳥瞰図・合戦図などの絵画のみならず立体、漫画、インスタレーションなど表現方法は多岐にわたる。
主な個展に、2015年「山口晃展 前に下がる下を仰ぐ」(水戸芸術館現代美術ギャラリー、茨城)、18 年「Resonating Surfaces」(大和日英基金ジャパンハウスギャラリー、ロンドン)、23年「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山口晃 ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン」(アーティゾン美術館、東京)など国内外展示多数。
2019年 NHK大河ドラマ「いだてん 〜東京オリムピック噺〜」のオープニングタイトルバック画を担当し、22年善光寺(長野)へ《善光寺御開帳遠景圖》を奉納。

昨年フランスの出版社「LES ÉDITIONS DE LA CERISE」より刊行、国内流通することなく完売となった『CHRONIQUES D’UN JAPON MERVEILLEUX / とあるニッポン博覧圖』の再版が実現し、国内でも販売の運びに。スリップケース入りで大ボリューム、洗練された装丁による豪華仕様。現在、ミヅマアートギャラリーのオンラインショップにて直筆サイン入りを販売中。
https://mizumaart.theshop.jp/items/94792247

山口晃『CHRONIQUES D’UN JAPON MERVEILLEUX / とあるニッポン博覧圖』
言語|日本語 ・フランス語併記
仕様|ソフトカバー、スリップケース(函)入り、カラー 220ページ
サイズ|300 x 240 mm
テキスト|フランク・マンガン(Franck Manguin)
インタビュー|小山ブリジット(Brigitte Koyama-Richard)、フランク・マンガン


また、日本橋高島屋S.C.にて開催中の「日本橋南詰盛況乃圖 絵解き  ~日本橋今昔往来~」へ出品。
会期|12月11日(水) – 12月22日(日)
会場|日本橋高島屋S.C. 本館8階 催会場 [入場無料]
開場時間|10:30 – 19:30 [最終日は10:30 -18:00]
https://www.takashimaya.co.jp/nihombashi/departmentstore/special/1_2_20220316153945/

山口晃 《日本橋南詰盛況乃圖》 2021年 撮影:浅井謙介(NISSHAエフエイト株式会社) 髙島屋史料館蔵 ©︎YAMAGUCHI Akira, Courtesy of Mizuma Art Gallery

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