美術史の豊かな知識を土台にして、当代一の画力を武器にどこにもない絵を生み出す。そんな人気画家、山口晃ガハクは夫婦揃って食いしん坊。日常で、旅で、制作中の日々で、散歩の途中で何を食べてるの? ガハクが日常を描くコミックエッセイ『すゞしろ日記』に「カミさん」として登場するガハク妻による食事帖。
マヨネーズ手作り宣言からの初戦敗退、そして2戦目引き分けかな。次こそ…

 

 

絵/山口晃

ゆでたてのブロッコリーを食べる時、山口ヒゲ画伯こと夫(以下ガハク)は5回に一度くらいの頻度で「手作りマヨネーズをつけたらさぞおいしかろうね」と言う。
しかし、自分でやる気はまったくなくて、ただ夢のような状況を思い浮かべてとりあえず口に出しているだけという、ガハクにありがちなこと。
他にも、例えば「プランターで野菜を作るといいな」とか「ソーラーパネルで発電してクーラーを使おう」など、言うだけ言っては宙を見つめている。おそらくガハクの脳内では具体的に事が進んでいるのだと思う。心の中で何かを思っているときに使われるマンガの吹き出しが、ぽわわわーんとガハクの頭上に浮かんでいるかのようだ。
計画表だけ書いてもう終わったつもりでいる、本を買っただけで読んだつもりになる、そんな状態に似ているだろうか。
わたしの方は、そのようなことを聞かされると、暗に(自分は実行しないけれどもあなたが)「やってね」と提案・催促されているようで心地がよくない。ガハクにはそんなつもりは毛頭ないらしいのだが。

けれどこのマヨネーズに関してはわたしも興味がなくはないので、いつか作ってみてもいいかなと思っていた。
というのも手作りマヨネーズといえばずっと気になっていたメニューがあって、それはフランス料理の一品である「ウフ・マヨネーズ」。

旅行ガイドなどを見ると、ビストロでは定番の前菜です、と紹介されているあの料理。ゆで卵にマヨネーズ、だけで料理といえるの? と猜疑心と興味とが渦巻いていた。マヨネーズを手作りしていればおいしいだろうし、その辺りが腕の見せ所なのだと想像することはできたが、普通に市販のマヨネーズをかけているような適当な店もあるのでは、などと考えるとフランスを訪れる機会があってもオーダーしてみる勇気がなかった。
それをついに試すことができるのだ。

9月のお彼岸を過ぎ、暑い暑い夏の勢力が急に弱まり、締め付けられていた脳が緩んでくると、ようやく何かしてみようかなという気になってきた。
「マヨネーズ。作ろうかな」
「ついに、やりますか」

素材にはほどほどに凝ろうかと、卵はオーガニックスーパーにて購入してみる。しかしそれ以外の材料については、常備しているオリーブオイルと黒酢、それと塩なので、結局そんなに凝ってはいない。
マヨネーズ作りは、上記の材料を混ぜて乳化させるという、過程自体は至ってシンプルなもの。

「要するに卵を使って乳化させるということだよね」
いざ作るということになったら、ガハクが何やら乳化に関しては一家言あるようで台所にスタンバイしたわたしを前に語り始めた。
画家として「卵、乳化」というと即テンペラ絵具を思い浮かべてしまうようで、その成り立ちや特徴、また改良を加えた代用品についていろいろと説明をしてくれたのだが、あまりに専門的で、生半可なことは記せないし、記述し始めると頁も足りなくなること必至につき今日のところは割愛させていただきたく。
「メディウム(絵画において絵具)作りから丁寧にやってみても面白かったかもね」
とガハクはつぶやくが、性に合う、合わないはある。凝り始めたら止まらないガハクだけど、大学の指導教官から知識を得たものの結局そこまで技法・画材にはこだわらず(こだわれず)市販のオイルを調合して油絵を描いていたとのことだった。

ガハクのうんちくを聞いた後、いよいよわたしの方も乳化作業の実行に移す。
以前のカッテージチーズ作りはドキドキしながら行って大成功。去年作ってみると宣言していたホワイトアスパラガス用のオランデーズソースも、この『ごはん帖』で報告していなかったけれども今年は無事出来上がっておいしくいただいた。


「テンペラ」はラテン語の“ temperāre(テンペラーレ:混ぜる、調合する)”を語源とする。顔料に、接着成分として卵などの動物性タンパク質を加えた絵具、またそれを用いて描いた絵を指す

また、仕事でお世話になっているある方から、「マヨネーズ作りは簡単ですよ。小学校の家庭科で作りました」などと聞いてしまっていたから、混ぜればできるかなくらいに高を括っていたところはあった。
さらには、レシピを検索した中には、子ども向けなのか、分量が書いてあり「混ぜましょう」だけしか載っていないサイトもあって、難しくないだろうと思ってしまった。

マヨネーズを作るべく台所で格闘していたわたしは、散歩から帰ってきたガハクに悲しく宣言した。
「・・・固まらない。失敗しました」

「どれどれ。ちゃんと混ぜたの? 分量は合ってる?」
ガハクは、わたしが使っていたドレッシング用の小さな泡立て器を脇に置き、引き出しから出した通常の大きさのものに換え、がしゃがしゃと混ぜ始めた。(注:わが家には電動ハンドミキサーがないので手動)
すでにわたしがさんざんやったので、これ以上変化はないはずだがこうダメ出しされると気分がよくない。
「うーん、まだ液体だ。空きビンある?」
次は何をするのかと思ったら、ビンに入れて振ってみるのだそうだ。
わりと空いた容器はとっておくタチなのでいくつか候補をガハクに見せるが、以前入れていたコーヒーや紅茶の匂いが残っていたり、小さすぎたり。辺りを引っかき回し空いたトマトケチャップのビンを発見、これならぴったりだ。
ぷうんと酢の香るどろりとした液体をビンに流し込むと、ガハクはバーテンダー気分でビンを強く振り始めた。
シェイカー想定よりも激しく動きすぎたか、ビンだとそこそこ重みもあったせいなのか、
「もうダメ・・・頭がくらくらしてきた」

しばらくすると運動不足のガハクはぐったりと倒れ込んでしまい、その日は寝るまでずっとめまいが続いていたようだった。
ガハクが身体を張ったことも虚しく、この日出来上がったのは特製卵入りドレッシング。
ブロッコリー、ゆで卵にかけて食べると素材自体は悪くないのでそれなりにおいしくはあるけれど、目標からは著しく離れていたので静かな食卓になってしまった。

翌日やり直そうとも思ったけれど、こうも大失敗するとかなり意気消沈しており、卵が生っぽい雰囲気のドレッシングがまだ残っているしで、しばらくマヨネーズ作りを忘れて心を落ち着けることにした。

ちょうど1週間後には立ち直り、再び卵とブロッコリーを仕入れに行った。
「失敗した原因はどこにあると思う?」
自分でもwebにていくつかレシピを見たガハクが、調理前にわたしに今一度反省会を仕向ける。
「油をいちどきに入れすぎたからかと」
少しずつ入れると記してあって、自分ではそのようにしたつもりだったのだが、思い当たるとしたらこの点だ。
「今度はさ、動画をちゃんと見て、どういうタイミングでどう固まるかよく確認してから作りなさいよ」
この前は動画は時間を取られるから見ていなかった。絶対に成功させたいからには、「ガハクはいちいち指図が細かいな」と思いながらも動画での予習をしっかりと行う。
そして恐る恐る塩や酢を計量、まずは卵の黄身だけを取り出し、底が深めの器に油以外の材料を入れ、下準備でもよくよく混ぜておく。
「手作り」というものをしてみるとつくづく思うのだが、摂取に注意が必要な材料ほど分量がものすごく多い。マヨネーズは卵、のイメージがあったけれど、実は成分のほとんどが油だったと分かっておののいた。卵黄一個に対して油は最小量のレシピで80ml、だいたいはその倍以上で180ml前後であった。
お菓子作りの番組を見ていても、目を見張るような量のバターと砂糖が投入されているし、ガハクの料理体験談でも、ガスパチョを作ってみた時に材料に信じられない塩の分量が指示されていたそうで、あまりに法外なので独自に減らしてしまったら全然味がしなかったと聞いた。
さて、器の中の素材が互いになじんでざらりとしてきたら、いよいよオイルを投入。どの動画の例にもないくらいものすごく少しずつ、スプーンでちまちまと入れてはしつこく泡立て器でかちゃかちゃと混ぜ、を繰り返した。半分くらい入れたところで、粘り気が出てきて素材がベタベタと泡立て器にまとわりつくようになった時には、なんとか形になりそうだと深く安堵した。

それでも気を抜いてはいけないと20分くらいかけて混ぜていただろうか、やや緩めでやたらと黄色いのが気にかかったけれども、一応マヨネーズといえそうなものが完成した。
「できたかも」
わたしはガハクにおずおずと報告した。

食卓には再び、ブロッコリーとゆで卵が並ぶ。
ガハクがマヨネーズの入った器を見て、ひとまず労を労ってくれる。
「ちゃんとマヨネーズになってるじゃないの」
冷蔵庫に入れておいたら、さらに固まってだいぶそれらしい形状になっている。表面はなめらかに隆起して部屋の照明が反射し白のハイライトが入り、スプーンですくってもだらりと垂れたりしないでぷるっとした半固体だ。
手作りマヨ様に敬意を示し、白ワインで軽く乾杯して早速食べ始めたけれど・・・。
「せっかく作ったのにあまり喜んでないね」
ガハクがおもむろにわたしに声をかけてきた。
「それを言うならあなただってさ、『おいしい』って一言も言わないし」
ガハクはおいしいものを食べれば「うまい」と言うし、演技ではなく素で目をつぶってじっくり味わうのだけれど、今日はノーリアクションである。
たぶん原因はオリーブオイル。
「クセがあるので利用はおすすめしません」とレシピにあったのに、うちにはそれしかなかったのでオリーブオイルを使ってしまった。そのせいなのだろう、オリーブオイルの強い香りが目立ち、松ヤニっぽい風味のマヨネーズになっていた。
ブロッコリーにかけると、オリーブオイルのもたっとした重さが強すぎて卵や酢の要素は消えてしまい、火を通したはずの野菜が妙に生っぽく感じられていまひとつなのだ。

ただ、ゆで卵に添えると同じ卵成分が呼び合うのか、元々おいしくなる組み合わせのせいか、オリーブオイルのクセもそう気にはならない。
「こっちは大丈夫そうかな」
自分をなぐさめるような、言い訳するような。雨降り前の空のような心境のままその日の夕飯の時間は終わった。

卵1個に対して作られるマヨネーズは思いのほか大量だ。空気を含んでふくらむのか、軽量カップ一杯分ほどになり、とても1日では使いきれない。が、生ものなので早めに消費しなければならない。
そんなことで翌日も残ったマヨネーズの出番が来る。
野菜はグリーンアスパラガスに変更し、ゆで卵は引き続き登場。
この手作りマヨネーズのクセのある感じを和らげようと、今日はトッピング用に粒マスタードとコショウを準備してみる。
粒マスタードの方がパンチが強いので、オリーブオイル感が薄まり悪くない味になった。さらに、1日寝かせたせいかなんとなく全体がなじみ、味わいにまとまりも出てきた感じもする。

手巻き寿司のように、マヨネーズと薬味の量を調整しながら食事をすすめていくと、突然ガハクが言葉を発した。
「ウフマヨ、いいんじゃない?」
ついに手作りマヨネーズの中においしさが見出せたようだ。
当初の、ブロッコリーとあわせておいしく食べる、という予定からは外れたけれど、どうにかハッピーエンドには向かうことができた。

「やっぱりオリーブオイルが敗因だったと思う。また作るとしたらまずオイルを適切なものにしないといけないね」わたしが役に立たない後悔をしていると、
「指針が分かったから、次はおいしく作れるね」
と、そこそこ手作りマヨネーズを気に入ったらしいガハクが言う。
「一年後くらいかな」
「えー、そんなに先?」
あれ? そんなに楽しみにしているのですか。
ガハクの要望はともかく、わたしの気が向いたら一年が経つよりもう少し前に作ることもあるかもしれない。あの味を思い出してみると、完璧からは程遠かったけれど、量産の市販品にはない得がたいおいしさがあったから。


■次回「ヒゲのガハクごはん帖」は11月第2週に公開予定です。


●山口晃さんってどんな画家?
1969年東京都生まれ、群馬県桐生市に育つ。96年東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻(油画)修士課程修了。 2013年『ヘンな日本美術史』(祥伝社)で第12回小林秀雄賞受賞。
日本の伝統的絵画の様式を踏まえ、油絵で描く作風が特徴。都市鳥瞰図・合戦図などの絵画のみならず立体、漫画、インスタレーションなど表現方法は多岐にわたる。
主な個展に、2015年「山口晃展 前に下がる下を仰ぐ」(水戸芸術館現代美術ギャラリー、茨城)、18 年「Resonating Surfaces」(大和日英基金ジャパンハウスギャラリー、ロンドン)、23年「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山口晃 ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン」(アーティゾン美術館、東京)など国内外展示多数。
2019年 NHK大河ドラマ「いだてん 〜東京オリムピック噺〜」のオープニングタイトルバック画を担当し、22年善光寺(長野)へ《善光寺御開帳遠景圖》を奉納。

巡回中の「ジパングー平成を駆け抜けた現代アーティストたち」へ出品。
会期|2024年8月24日 – 10月20日
会場|佐賀県立美術館
https://saga-museum.jp/museum/exhibition/limited/2024/07/004501.html

会期|2024年11月2日 – 12月22日
会場|ひろしま美術館
https://hiroshima-museum.jp/special/detail/202411_zipangu.html

山口晃 《東京圖 1・0・4輪之段》(部分) 2018年〜 撮影:浅井謙介(NISSHAエフエイト株式会社) 山種美術館蔵 ©︎YAMAGUCHI Akira, Courtesy of Mizuma Art Gallery

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