美術史の豊かな知識を土台にして、当代一の画力を武器にどこにもない絵を生み出す。そんな人気画家、山口晃ガハクは夫婦揃って食いしん坊。日常で、旅で、制作中の日々で、散歩の途中で何を食べてるの? ガハクが日常を描くコミックエッセイ『すゞしろ日記』に「カミさん」として登場するガハク妻による食事帖。 チョコレートを前に女子化したと思ったら、ポリポリと栗鼠(リス)化、そして我にかえり鋭い分析に至るガハク。
絵/山口晃
いつの頃からか2月のバレンタインデーが楽しみになった。
というのも、普段目にしない舶来もののチョコレートが毎年次々と紹介されるからである。
フランスの片田舎からオーストラリアまで世界中から選りすぐられ、ボンボンショコラ、トリュフ、タブレットにサブレといった様々な種類のチョコレートや、趣向が凝らされたデザインや見慣れぬ色あいのパッケージは見ているだけでワクワクして、自分では訪れることがないだろうと思われる国々や都市のことに思いを巡らせることが楽しい。
それにしても尽きることなく毎年のように新たな店の製品が展開し、早々に売り切れる人気商品もあったりして、世のみなさんの探究心には感心するばかりだ。
それに比べるとわたしの情熱の度合いは、ほどほどだろうか。百貨店の催事場は決勝試合中の体育館のようで、人集りと白熱ぶりに押されて近寄れない。せいぜいwebでちまちまとカタログを見て、それでも出遅れて「あー、これ食べてみたかった」とsold outの表示にがっかりし、さんざんあれこれ検討した末に渋め路線のクラシックなタイプをふたつみっつ選んで到着を待つといったところだ。
もちろん山口ヒゲ画伯こと夫(以下ガハク)に贈ってあげるわけだが、ふたりして食べるので結局は自分のためで、珍しいチョコレートを仕入れるもっともらしい言い訳にしている。
チョコレートには依存性があると言われるだけのことはあって、大概のものはおいしく、幸福感を与えてくれる。
常備するには気が引ける価格帯の商品になれば、当然ながらそれに見あった夢の時間が得られる。口にしたとき、マッチの火が消えるくらいの短い時間であるけれど、濃密に凝縮された別の世界へと魂はとんでいく。
ガハクもそんな類のチョコレートを味わうときには大げさなくらい真剣に全力を傾け、交響曲でも聴くかのように目を閉じてゆっくりと食べる。
先に食べ終えてしまい、早々に現実に戻ったわたしが「それでさぁ・・・」と話しかけようものなら、
「ちょっと待って!」
と、手を振って黙らせる仕草をするのであった。
ゆえに、3年ほど前、百貨店にて某フランスメゾンのチョコレートビスケットをふいに見つけたときには、「こんなものがあったとは!」と目をみはった。
チョコレートビスケット、という名称で通じるのか分からないけれど、ビスケット地に板チョコレートが載った(コーティングではなくて)タイプの、国内外各メーカーが製造していてスーパーでもよく見かけ、日本にも非常に知られた一品がある例のあれだ。
これはガハクも好きなお菓子のひとつで、近所の自然食品店にてオーガニックバージョンを購入しては定期的におやつメニューに登場させている。また、板チョコとビスケットがちょうど同時に家にある場合には、チョコレートをビスケットに載せてそれっぽくアレンジし、「安定が悪いなぁ」と思いながら無理やり指で押さえつけつつ食べてみたりもする。
「やっぱりこう、ビスケットと一緒になるとターボがかかってチョコのポテンシャルが一気に上がると思うのだよね」
この王道ともいえる組み合わせには毎度のように感激するのだろう。チョコレートビスケット(またはチョコレート+ビスケット)を食べる度にガハクは真剣な様子でパリパリサクサクしながら、いつも必ず同じことを述べるのだった。
話を戻すが、それで、ここではそのチョコレートビスケットが高級バージョンとなり体裁よくパックされ四角い缶に入っているのである。
本気のチョコレートに、バターたっぷりの黄金色に輝くビスケット地という、逸品同士が合わさった最強タッグ。これはありそうでなかった製品で、今まで見かけたことがなかったように思われた。
ガハクの喜ぶ顔を思い浮かべつつ、何でもない日だけど奮発するかな、といそいそとレジに向かった。
「きゃー。なにこれ」
缶の中に石畳のようにぎっしりと並んだチョコレート面を見て、ガハクが乙女化してはしゃぐ。
チョコレートはダークとミルクの2種があり、ペアになって個包装されている。ビスケットの大きさはそれぞれ約5×3cmくらい。まずは一袋を開けて分けあうことにする。ふたりとも断然ダークの方が好きなので、「半分に割ろう」ということに。器用な画伯にそれを任せるが、
「ん?」
立派すぎて手ですぐに割れない。力まかせに試みると「パン!」と高らかな音がして不公平で不揃いな配分に。チョコレートとそれを受けるビスケットは各々が勝手な形に割れ、どこにも貝合わせが成立しないばらばらな4枚の板になっていた。
本品はチョコレートとビスケットの接着が2ヶ所くらいしかなく、いまひとつ留めがゆるやかなので、割った衝撃でこの2つの素材は簡単に分離してしまうのだ。
要素が全くの離ればなれになってしまうと、「チョコレートビスケット」ではなくて、自前で試みる「板チョコレートとビスケットの合体お菓子」と同じ状態なのではとも思える。
ちなみに、割らずにそのままかじることも試したけれど、ひとくちの衝撃でやっぱりチョコレートはビスケットから外れてしまった。
けれども肝心なのは味なので、些細なことは忘れよう。
それぞれが5mmほどの厚みを持った、贅沢なチョコレートとビスケットを重ねて食べてみると、期待した通りにチョコレートもビスケットもきっちり真面目な体裁でてらいのない味。
「さすが全部が濃厚だね。隙がなくてみっしりしてる」
やはり品質がいいものはおいしいのだ、と納得した。
チョコレートもビスケットも、どちらも本格的な作りだけあってかなり重たく、ふたりで一袋、つまりひとりで一枚も食べれば十分満足できるようなボリュームであった。
この品を知ってしまうと、もう以前のチョコレートビスケットには戻れないのかも、と感じられた・・・。
ややおやつの品揃え不足のとある日、薄くてコンパクトな板チョコのかけらをさびしくポリポリしていたガハク。これは生協のフェアトレードのオーガニック製品とかで、品質は保証されていたが、フレーバーがローズソルトだのザクロなどわたしのチョイスにつき女子っぽさが過ぎてガハクのテイストではなかった。
「なんで板チョコにしょっぱさが必要かな。チョコはチョコとして食べたいのよ」
中途半端な感じがガハクにはご不満なようだった。
「あ、そういえばビスケットがあったかも」
ごく普通のなんの変哲もない全粒粉ビスケットを(このような)非常事態のために買い置いていたことを思い出した。
「また隠してる。いっつもそうやって小出しにして。あるなら最初から教えてよ」
ガハクがストレス発散のため、いつの間にか暴食してしまったりするので、お菓子類は所定の場所以外にこっそりしまっておくことがあるのは確かだ。
「これよこれー」
チョコレートとビスケットという王道の組み合わせによって、しょんぼりした板チョコがめでたくちょっとしたおやつに早変わりした。そして「やっぱりチョコはビスケットと一緒になるとターボがかかって・・・・」、といつもの決まり文句が出てくる。
「うまい、すごくうまい。なんだろうねー、ビスケットのザクッとした感じとほんのりの塩気がチョコレートのなめらかさのあるカカオと合わさると別モノに変換されるのかな」
ひとしきり感心した後、ガハクがふと我にかえって考え込み言いづらそうに続けた。
「・・・でもこの取り合わせ、チョコレートが上等でないほうがおいしいように思う」
その時、ふたりが思い浮かべたのは、缶に並んだ高品質のチョコレートビスケットのことだ。とてもおいしく賞賛しながら食べていたのは事実であるが、どこか無理に納得しようとしていることをうすうす感じていた。
「それって、煮込み料理には肉がすじすじでどうしようもないほどおいしく仕上がる、みたいな?」
「ちょっと違うけど」
わたしのちょっとズレた例えはガハクに苦笑されたが、高級品ばかりがおいしいのではないと身をもって認識してしまったことにはやや愕然とする。
ガハクは食べながらも分析を進めているようで、指先のビスケットの粉を払いながら言葉を足していく。
「高品質だとチョコレートとビスケットの味が足し算になっているとでもいうのかな。だけどそれぞれが強いからそれぞれがそのまま、“おいしいチョコレートとおいしいビスケット”なのよ」
なるほど、1+1=2ね。 さらに比較コメントが加わる。
「でさ、どうってことのないチョコレートとビスケット同士が合わさった時には、なんていうか掛け算が起こるのかな。変身作用が出て、新たな食べ物として”チョコレートビスケット”が現れると思うの」
ふーん、1×1=1、あ、これだと成り立たない・・・。例えば、10点満点中の9(チョコ)+9(ビス)だとしたら=18。それほどでもない版が5(チョコ)×5(ビス)=25!確かにそうなる。
ガハクの考えもいろいろとまとまってきたらしい。
「チョコレートとビスケットが高級バージョンの時はね “カルバドスとグレナデンシロップ” がそこにあるだけなのだけど、廉価版になると合わさった途端に “ジャックローズ” になる、そういう “出現する力” がでるという感じ」
好きなカクテルに例えて、とうとうと説いてくれたので、わたしにもよく理解できた。
チョコレートとビスケットはそれだけで最高を目指し、立派に完結できるお菓子である。それをわざわざくっつけて「チョコレートビスケット」になった時点でこれは「駄菓子」という領域に入ってしまうのかもしれない。
そんなに完璧ではないちょっとダメなチョコレートさんとビスケットさんのふたりが協力することで、素敵お菓子の体裁を保つ、それが本来の駄菓子であるところの「チョコレートビスケット」なのだろうか。
だからわたしたちが百貨店で見つけて食べてみたような豪華版チョコレートビスケットは広く製品化することがなかったのかもしれない、と憶測した。
チープであるほど実はおいしいと判明してしまったが、ひとくち噛んだだけで分離して、一枚で十分におなかいっぱいになってしまう上質すぎたあのチョコレートビスケットも、ドン・キホーテのように孤高の闘いに挑んでいるようで妙に好感が持てる。
なんだかまた久しぶりに食べてみたくなってきた。
■次回「ヒゲのガハクごはん帖」は3月第2週に公開予定です。
●山口晃さんってどんな画家?
1969年東京都生まれ、群馬県桐生市に育つ。96年東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻(油画)修士課程修了。 2013年『ヘンな日本美術史』(祥伝社)で第12回小林秀雄賞受賞。
日本の伝統的絵画の様式を踏まえ、油絵で描く作風が特徴。都市鳥瞰図・合戦図などの絵画のみならず立体、漫画、インスタレーションなど表現方法は多岐にわたる。
主な個展に、2015年「山口晃展 前に下がる下を仰ぐ」(水戸芸術館現代美術ギャラリー、茨城)、18 年「Resonating Surfaces」(大和日英基金ジャパンハウスギャラリー、ロンドン)、23年「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山口晃 ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン」(アーティゾン美術館、東京)など国内外展示多数。
2019年 NHK大河ドラマ「いだてん 〜東京オリムピック噺〜」のオープニングタイトルバック画を担当し、22年善光寺(長野)へ《善光寺御開帳遠景圖》を奉納。
また、2023年にメトロポリタン美術館収蔵の《四天王立像》が同館にて公開中。
Anxiety and Hope in Japanese Art
会期|2023年12月16日 – 2024年7月14日
会場|メトロポリタン美術館 Gallery 223-232
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