子どもがみんなウルトラマンに夢中になるのと同じ感覚で、千宗屋さんは仏像大好き少年でした。小学校低学年の頃、仏像が見たくて京都・南山城のお寺を訪ねる旅をねだった思い出話なども伺いながら、東京国立博物館で開催中の「浄瑠璃寺九体阿弥陀修理完成記念 特別展 京都・南山城の仏像」を観賞します。
聞き手・文=松原麻理
——「南山城」という言葉はあまり一般的ではないと思うのですが。
南山城とは京都府の最南部、木津川流域周辺を指す呼び名です。奈良との府県境にあり、地名でいうと京田辺市、城陽市、宇治田原町、木津川市あたりになります。やや乱暴な言い方をする京都の人間の中には「あそこは実質、奈良だよね」と言い放つ人もいたりして(笑)。実際、今回の見どころの一つである九体阿弥陀がいらっしゃる浄瑠璃寺に京都市内から行くには、たいていの場合まず奈良駅に出て、そこからバスに乗らなければならないなど、なかなかに交通の便が良くないところで、南山城のお寺を何カ所か訪ねるには車で回らないといけない。それぐらい行きづらい場所で一般にはなじみの薄い土地ですが、仏像ファンにはよく知られた場所です。
——今回の展覧会は南山城にある、重要文化財12点、国宝3点を含む平安初期から鎌倉時代にかけての仏像18点が集められたわけですが、そもそもどうしてこの地域に仏像の名品がたくさん残っているのですか?
京都と奈良の間の、周囲を山に囲まれたエアポケットのような場所が南山城。だからこそ古い仏像が応仁の乱など幾多の戦火で失われることなく残ったのでしょうし、逆に言えば京都と奈良、両方からの恩恵に浴した、文化的に豊かな地域だったと言えます。また交通の要衝でもありました。奈良に平城京が置かれると、大寺院造営に必要な木材は木津川を通って運ばれました。木津川は宇治川、瀬田川、琵琶湖へとつながり、その先には若狭や福井の港がある。これらの沿岸都市にもたらされた大陸や朝鮮半島の文物も、この水路を通じて南山城まで伝わったのです。ある意味、奈良の都にたどり着くより先に最先端の仏教文化に接した土地でした。
この地域は奈良の高僧たちが隠居する場所でもありました。たとえば今回見逃せない、像の高さ約3mの十一面観音菩薩立像が安置される禅定寺は、もともと東大寺の別当(お寺のトップ)だった平崇上人が隠居するために建てたお寺と言われていますし、浄瑠璃寺も興福寺の別所だった時代があります。このあたり一帯が藤原氏など貴族の荘園領だったことも要因の一つでしょう。
——今回の展覧会の見どころを教えてください。
いくつかあるのですが、まずは平安時代初期から鎌倉までの仏像の変遷を一挙に見られる、ということです。如来の例を挙げながら、説明していきますね。
平安初期:一木から彫られた幼児体型の仏さま
身体のサイズに対して頭が大きく、お腹がぷくぷくとして、まるで幼い子どものような体型ですよね。これは仏の無垢な魂を、穢れなき童子の姿になぞらえていると言われます。短身で、ずっしりとした安定感があるでしょう? これが平安初期の仏像の特徴です。あと、衣のひだを見てください。深いひだと浅いひだを交互に繰り返して彫られている。これを「翻波式衣文」と呼ぶのですが、これも当時の特徴の一つです。
薬壺を手に持っている薬師如来は病や怨霊を鎮める仏様なので、ときに厳しく、怖い顔をしていることがあります。対して、阿弥陀如来は死者の魂の救済をする仏なので、柔らかい表情に見えます。
大事なのが、これがカヤ材の一木造りであること。仏教伝来以前に、日本には霊木を神として信仰する神道やアミニズム的思想がありました。つまり、もともと神仏の宿る神木から神や仏の姿を彫り出したのです。なので、寄木造という効率的な制作方法が編み出される以前には、仏像の素材は一本の丸太であることが重要視されたのです。
これもお腹がぼってりとして安定感があり、平安というより唐の影響が強い奈良時代の雰囲気を残しています。こちらも針葉樹の一木造りです。
平安中〜末期:効率的な寄木造と仏像スタイルの完成
この頃になると、貴族を中心に末法思想を憂えた浄土信仰が広まり、仏像の需要もだいぶ増えていきます。浄瑠璃寺の薬師如来坐像は一木から彫り出し、前後に二つ割りにして、内側をくり抜いてから再びはぎ合わせてあります。一木のままだと木が割れてしまう危険性を防ぐための工程で、彫刻技術の進展が見て取れます。
平安初期に比べるとグッと洗練されて、全身のプロポーションも良くなります。よく見ると袈裟のひだに截金で立涌紋様や七宝つなぎ文様がほどこされていたり、花丸文が彩色で表されていたり、優美な装飾が見られるようになります。
鎌倉時代:仏像の大量生産化!?
信仰が一般大衆にまで広がると仏像需要も激増。持ち運びに便利なコンパクトな像も増えていきます。制作過程がより分業化・パターン化され、整った造形が完成するとともに、同じスタイルの仏像が大量生産される、たとえて言うならばプラモデルのようにつくられるイメージでしょうか。平安初期の仏像がオートクチュールなら、こちらはプレタポルテと言えるかもしれません。行快は快慶の弟子ですが、実際には工房での分業制作でしょう。平安期までの仏像がアノニマスなのに対して、作り手の名前が記され、作家性が重視されるようになるのもこの時代からです。
浄瑠璃寺の九体阿弥陀修理がようやく完了
もう一つの見どころが、浄瑠璃寺の九体阿弥陀の保存修理5か年計画が終了し、最後に修理を終えた一体が展示されていることです。
——九体阿弥陀って、なんですか?
11世紀後半から12世紀末にかけて、極楽浄土を願った貴族たちが9体の阿弥陀如来像を一つのお堂に安置することが流行しました。当時は30例ほどあったことが文献で確認されていますが、当時の彫像・堂宇が残っているのは浄瑠璃寺の九体阿弥陀だけで、国宝に指定されています。修理は2018年度から始まり、2020年度は中尊1体、それ以外は毎年2体ずつ行われ、向かって一番右端にある阿弥陀如来が、お寺に戻される前にこうして展示されることになりました。
浄瑠璃寺の九体阿弥陀堂内、中央に高さ約220㎝の中尊、その左右に4体ずつ高さ140㎝前後の如来像が横一列に並んでいる様子は壮観ですよ。お寺の中で見ると中尊の存在感が抜群で、そこにばかり注目してしまうかもしれませんが、こうして展覧会場で一体だけで見ると主役級の迫力があります。印を結んだ手をよく見てください。親指と人差し指の間の、水掻きのような部分に細い格子線がたくさん彫られています。これは縵網相と呼ばれ、皮膚が薄く透ける様子を表現したと考えられています。水掻きのような手は衆生をもれなく救うため、と言われています。
お寺の中では須弥壇の囲いに覆われて見えない当初からの台座まで、ここではしっかり観賞できるのもありがたいことです。
広目天立像(四天王のうち) 平安時代 11〜12世紀 京都・浄瑠璃寺 国宝
多聞天立像(四天王のうち) 平安時代 11〜12世紀 京都・浄瑠璃寺 国宝
九体阿弥陀を取り囲む四隅に四天王像が安置されているのですが、そのうちの広目天と多聞天の立像が今回並びます。高さ160㎝を超える堂々たる姿は寄木造で、彩色や截金による文様が鮮やかに残っていますね。風になびく衣も、光背の炎も、大きな欠損や修理の跡がなく奇跡的に当時のまま残っているのは、山奥のお寺の薄暗い堂宇で守られていたからなのでしょう。まさに“院政期の美麗”そのものといった感じで、ヒラヒラとして華やかな絵画的な美しさがあります。
まだまだある、必見の仏像
他にも見応えのある仏像をいくつかご紹介します。
普賢菩薩は女性の成仏を助ける仏で、宮中の女性たちに篤く信仰されました。高く結い上げた髷からリボンを垂らした姿は優美で、いかにも高貴な女性に好まれそうです。お釈迦様の脇侍として「普賢菩薩」と「文殊菩薩」がセットになっている場合も多いですが、これは単体で伝わった例です。単体の作例は絵画に多く、彫刻では珍しいのですが。
牛の頭を頭上に乗せた牛頭天王は天竺(インド)の祇園精舎の守護神で、日本だと祇園社(京都・八坂神社)の祭神として知られ素戔嗚尊と同一視されています。元は疫病神(疫病や災厄をもたらす神)でしたが、転じて疫病を鎮める神として解釈され、集落の入り口や街道沿いによく祀られました。「うちにはもう既に疫病神がいますから入って来ないで」ということなんでしょう。
憤怒の顔ですが、どこかユーモラスで可愛らしいですよね。三井寺(滋賀県大津市)を開いた天台宗5代目座主・円珍[814-891]が比叡山で修行をしていた時に感得した(イメージが降りてきた)不動さまが上半身裸で金色に輝き、剣と羂索を握りしめていた。「山中に金人を得る」と記録に残された伝説を写し取った絵図が「黄不動(正式には金色不動明王)」として三井寺に伝わっているのですが、この不動明王はそれと共通しています。円珍が絵師に描かせた絵画をモデルとして彫刻にしているから立体感が薄く、平板な印象なのでしょう。不動明王というと辮髪を左胸に下ろしているのが普通ですが、これは螺髪風の短髪の巻き毛、パンチパーマですね(笑)。
——ところで、千さんは子どもの頃から仏像が大好きだったとか。どんなお子さんだったのですか?
赤ん坊の時、初めて喋った言葉が「大文字」だったとか、提灯に異常に興奮したような反応を示したとか、3歳の時、母方の祖父からつけられたあだ名が「神社仏閣」だったとか、逸話のような実話を聞いています(笑)。祖父(先代家元・有隣斎宗匠)が京都大学の史学科卒なので、祖父の本棚から勝手に歴史書や仏像の本を取り出して眺めていました。
祖父がとりわけ仏像好きだったわけではないのですが、小学校低学年の頃、私が仏像を見たいとせがんで、祖父と二人だけで夏休みや冬休みに1泊2日で奈良に行ったりしました。南山城にもその頃、家の運転手さんの車に二人で乗って行きました。仏像っていろんな種類の顔があるし、手指で意味ありげなサインを示していたり、剣や水瓶などさまざまな武器や道具を持っていたり、私にとってはウルトラマンみたいな存在だったのでしょうね。
サンタクロースへお願いする本の値段の桁が一桁違うとか、よく言われました。仏像の豪華写真集などでしたから(笑)。クリスマスプレゼントが密教法具の三鈷杵だったこともあります。
——その頃から南山城も回られていたのですね。
しかし京都人にとってもなかなか行きづらい場所でして、私も浄瑠璃寺と岩船寺、禅定寺ぐらいしかまだ訪れたことがありません。ぜひ他のお寺も訪ねてみたいと思っています。
京都市内は応仁の乱で多くの寺が焼けましたから、古い仏像を安置する寺はあまり数がないのです。加えて京都市内のお寺というと禅宗や浄土宗、日蓮宗など鎌倉仏教系の寺院が多いですから。そう考えると南山城には平安時代の仏像が質量ともにこれほどの豊かさで残っている、そして奈良、平安から鎌倉にかけての仏像史の概要を一通り辿ることができるという意味では稀有な地域だと思います。
一つ一つの寺を回ろうとすると大変な時間がかかりますから、こうして東京の博物館でまとまって拝見できるのは、本当に貴重なことです。もちろん現地に足を運んで、実際のお堂の中に安置された姿を拝するのも格別ですが、博物館展示では仏像の後ろ側や台座、装飾のディテールまでじっくり、はっきりと確認できる。これもまた醍醐味だと思うのです。
会期|2023年9月16日(土)-11月12日(日)
会場|東京国立博物館 本館特別5室
開館時間|9:30-17:00[11/3(金・祝)、4(土)、10(金)、11(土)は9:30-19:00]入館は閉館の30分前まで
休館日|月曜日[10月9日は開館]、10/10(火)
お問い合わせ|050-5541-8600 (ハローダイヤル)
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